渋井式クロスファイア

野球観戦記。他いろいろ。

【325】「松坂大輔」という、野球で有名な人。

投手をしているらしい。

 

 

 

こんにちは、渋井です。

皆様は、「松坂大輔」という人を知っていますか?

 

私は、かねてより埼玉西武ライオンズのファンです。具体的には、初めてファンクラブに入り、西武ドームに自分の意思で「行きたい」と思うようになり始めたのは、2007年からです。2007年と言えば、稀代の大砲・アレックス・カブレラ、遅咲きの安打製造機和田一浩の西武最終年、また、″しなやかな蒼き刃″岸孝之・″剛球一直線″木村文和(現・文紀)のルーキーイヤーです。

そして、その前年の2006年に西武からメジャーリーグに挑戦した大投手こそが、松坂大輔です。

 

松坂大輔】(参照:Wikipedia)

1998年夏の甲子園で優勝投手になる。決勝戦ではノーヒットノーランを達成。

1998年ドラフト1位で西武ライオンズに入団。

翌99年4月7日という早い段階で、高卒1年目ながら初先発でデビュー。この登板で8回2失点の好投を見せプロ初勝利。この日の初回にファイターズ・片岡篤史から奪った、155km/hの高めストレートでの空振り三振が有名。

4月27日、プロ初完封。

1999年は、最終的に16勝を挙げ、最多勝を獲得。最高勝率・ゴールデングラブ賞ベストナインも獲得し、高卒1年目ながら、事実的な「リーグNo.1」の投手と認められる。

2000年、開幕投手を務める。この年も14勝で最多勝を獲得。また、144奪三振最多奪三振も記録した。

2001年、リーグ戦140試合のうち32試合に先発し、240・1/3イニング(1試合平均7イニング以上)を投げ、リーグ最多の投球回、15勝、15敗、12完投、212奪三振、117与四球、104失点などを記録。高卒新人投手のルーキーイヤーからの3年連続最多勝は、現在も松坂以外に記録した投手はいない。

2002年、ライオンズは優勝した年であるが、松坂は故障の影響でシーズン終盤は満足に投げることは出来なかった。11先発で6勝に終わる。

2003年は故障から復帰、防御率2.83で初の最優秀防御率を獲得。また、2001年より少ない194イニングで、2001年より多い215奪三振を記録し、最多奪三振投手となった。勝ち星も16勝を記録したが、ホークス・斉藤和巳が20勝を記録したため、最多勝の獲得とはならなかった。

2004年、リーグ最多の5完封を記録。シーズン途中に開催されたアテネオリンピックのメンバーに選出された影響でレギュラーシーズンでの登板機会は少なくなったものの、規定投球回をクリアし、防御率2.90で2年連続の最優秀防御率を獲得。オリンピックでも、2度の先発機会を9回途中3失点(勝)、8回途中1失点(敗)とまとめ、日本のメダル獲得に貢献した。また、この年のライオンズはレギュラーシーズン勝率2位ながら、プレーオフを勝ち抜きリーグ優勝を達成。松坂はプレーオフ日本シリーズでも登板間隔を狭め奮投。チームの柱として日本一獲得にも貢献した。

2005年、防御率は2.30と前年より良化し、28回の先発機会のうち、半分以上の15回を完投したが、14勝13敗と大きな勝ち越しには繋がらず、タイトルも最多奪三振(226)のみだった。ちなみに、最多勝最優秀防御率もホークス・杉内俊哉(18勝・防御率2.11)が獲得している。

2006年は、シーズン前に開催されたWBCに出場。球数制限があるルールの中、先発投手として任された3試合全てで4イニング以上投げ、勝ち投手になり、日本の大会優勝に大きく貢献、MVPも獲得した。

レギュラーシーズンでは、2005年から開催されている交流戦で、プロの投手としては2度目となる甲子園のマウンドに立ち、自らが本塁打を放ち、1失点完投勝利。翌週の登板での勝利で、プロ通算100勝目を記録。最終的にこの年も25回の先発機会のうち半分の13回を完投し、自己最多の17勝を記録。防御率も2.13と更に良化した。さらに186・1/3イニングで奪三振も200を数えたが、この年はタイトルはなし。完投数以外の全てで松坂を上回ったのが、ホークス・斉藤和巳(18勝・防御率1.75・201イニング・205奪三振)だった。

そして、この2006年オフ、ライオンズからポスティングシステムによるメジャーリーグ挑戦が容認され、ボストン・レッドソックスへ移籍することとなる。

この後、2007年に15勝・ワールドシリーズ制覇(日本人投手初の勝利投手)、2008年に18勝、2009年WBCでは再び3先発3勝しMVPを獲得、メジャー通算8年で56勝を挙げ、2015年から日本球界に復帰。2018年にはドラゴンズで11先発・6勝を挙げ、カムバック賞を受賞するなど、華々しく荒々しい″ライオンズ外″の時間を経て、2020年、14年振りのライオンズ復帰。そして先日、2021年10月19日の引退試合を以て、現役から退いた。

 

NPB通算、114勝、1410奪三振

日米通算、170勝、2130奪三振

 

松坂大輔投手の23年間のプロ野球選手生活の中で、私が実際に印象を述べられる、感想を覚えているのは2015年からでしょう。日本球界復帰後の7年間は、正直私にとって「松坂大輔」という名前の凄さは感じるには物足りませんでした。私より野球に精通している方、私より前から野球を好んで見ている方々の熱狂には、ついていけませんでした。2021年、引退を発表した時もそうです。ライオンズの「18」は、つけ続けたくても叶わなかった多和田真三郎という投手がいます。私は正直、今でも多和田のほうが思い入れは強いです。これは私自身の感情ですので、私以外の方にとっての「松坂大輔投手」の価値を疑問視するものではありません。

では、そんな私が何故ここまで松坂大輔投手のことを調べ、数ヶ月も書いてないブログ記事にしようと思ったのか。それは、昨日行われた「2021ライオンズサンクスフェスタ」での松坂投手の引退セレモニーを見て、私が覚えた「感動」があるからです。

 

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既にいろいろなところで記事になり、ライオンズ公式twitterでは数万の拡散をされているイチローさんの登場。その前に公開された、ビデオメッセージに登場した名選手・名監督の方々。これほどまでに「人を動かせる人」は多くないはずです。

繰り返しになりますが、私の中での「松坂大輔」という選手像、人物像は変わりません。ですが、松坂大輔さんを尊敬する、″伝説″と謳う人の気持ちは、よくわかりました。私は、その人達の感動を尊重しようと思います。おそらく次世代、私がプロ野球観戦にのめり込み、全盛期を知る選手が引退する時、具体的にいえば涌井秀章さんや栗山巧さん等が引退する時に、自分よりあとの世代の人が、今の私と同じ感情になると思います。そうして世代交代が行われていくのでしょう。″松坂世代″と称された1980年生まれの方々。奇しくも同じ2021年に引退をした″ハンカチ世代″(1988)の斎藤佑樹さんもそうです。並々ならぬ注目と、それに伴う重圧・責任、それらを跳ね除ける実力。これらに敬意を表したいと思います。松坂大輔さん。23年間のプロ野球選手生活、お疲れ様でした。